藤井聡太とAI ― 盤上没我 ―
2023年10月11日、王座戦で、藤井聡太七冠は永瀬拓矢王座を破り、史上最年少で将棋の八大タイトルを全制覇した。その日は「藤井時代」が確定した日として将棋界で記憶されるだろう。将棋の世界もAI時代を迎えている。最近の棋士たちは、将棋の分析や研究にAIを使うことが常識となっている。若い頃からAIを使った研究を取り入れた新進気鋭の棋士が増えてきている。その中で、なぜ藤井聡太だけが抜きん出ているのか。
高速道路の出口渋滞
かつて羽生善治九段は「ITとインターネットの進化によって将棋の世界に起きた最大の変化は、将棋が強くなるための高速道路が一気に敷かれたということです。でも高速道路を走り抜けた先の出口では大渋滞が起きています」と語っている。インターネットで棋譜を調べること、ネット中継でリアルタイムに情報を得ること、ネット対局をすることなどで、将棋上達の高速道路に乗ることは出来るが、その先のトップレベルに到達する道は自分で開拓する必要があるのだ。
将棋は序盤・中盤・終盤と展開される。AIの登場によって序盤は最新型の戦型がどんどん進化している。終盤は敗着をさけ理詰めで詰めていく。しかし、中盤の段階はどの指手が有利なのかという判断が難しい。人間はAIのように全ての局面を網羅して読み切ることは不可能であり、読みを打ち切る判断が難しいとされる。
棋譜の分析のために藤井聡太はパソコンを自作している。CPUに AMD Ryzen™ Threadripper™ 3990X を搭載した自作パソコンのパーツの総額が70万円を超えたと中日新聞が報じたことがある。家庭用パソコンのCPUが1秒間に約200万手読むのに対し、彼が使っていたCPUでは30倍の6000万手読める。普通のCPUなら10分以上かかる解析が10秒で導き出せるという。
膨大な棋譜の分析結果を咀嚼、吸収できることが、藤井聡太の天才性であり、無敵の棋士となった謂れである。彼の脳内には定跡の道筋の地図があるのではないかと言われている。日頃から未知の土地をGoogleマップで探索し、実際に訪れた時には誰よりも早く目的地に到達することができるのが彼なのである。
AI超え
2020年6月28日、渡辺明棋聖と対局した棋聖戦第2局で、藤井聡太七段が23分考えて指した58手目の“3一銀”は、AIが6億手を読んで導くことが出来る最善手だったことが判明し、将棋ファンの間で「AI超え」として話題になった。
2023年4月5日・6日、第81期 名人戦第1局、藤井聡太竜王が渡辺明名人に挑んだ。藤井竜王は1時間47分の長考の後、50手目に”3五歩”を指した。その後は、堰を切ったような激しい攻防となり、藤井竜王が110手で渡辺名人に勝利した。対局後、藤井竜王は32手先の“9八龍”まで読んでいたという衝撃的な事実を明かしている。
チェスや、将棋、囲碁などの伝統的なボードゲームは「二人零和有限確定完全情報ゲーム」に分類される。初手から勝負がつくまでを全部読む場合の数は、チェスは10120、将棋は10220、囲碁は10360と言われている(因みに地球の原子の数は1050、宇宙の原子の数は1080)。ある局面でルール上、指せる合法手の数が分岐数でありゲームの複雑さを測る指標の一つとされている。将棋における最大分岐数は593とされ、32手先では10億通り以上の局面があり、数千手を読むことが必要だと言われている。藤井聡太は実戦の場で32手先を読み、AIの計算能力を超えるほどの直感力や創造力で「神の一手」を指したのだ。
盤上没我
2023年11月11日に行われた竜王戦第4局で、藤井聡太竜王は、八冠達成後に初のタイトル防衛を果たした。一夜明けの会見で「盤上没我」と揮毫(きごう)した色紙を披露した。「盤上没我」とは、自分の存在や感情を忘れて、盤上の駒や形勢に没頭することを意味する。彼は自分の感情に左右されず、冷静に最善手を探すことを心がけている。また、相手の心理や表情にも注目せず、盤上のみに集中することで、自分の力を最大限に発揮している。
また、彼は目の前の勝ち負けよりも将棋への探究心を優先しているという。勝ちたいという意識が強まれば、人の思考は平穏なものではなくなる。タイトル戦では持ち時間があり、限られた時間で将棋を指すことが求められる。終盤になって、持ち時間を使い果たすと、「一分将棋」の世界になる。そこで棋士の終盤力の差が出る。たとえ勝利寸前まで到達していても、一歩でも踏み外せば奈落の底に落ちてしまう。極度の緊張の中で、平常心を保ちつつ、培った棋力を的確に発揮できるかどうかが勝負を分ける。
棋士の頂点
王将戦を制覇して五冠となった時に、藤井聡太は「まだ頂上が見えていない意味では森林限界の手前」と述べ、自身の将棋のレベルを富士山の五合目に例えた。そして八冠となった時、富士山の頂に達したのではないかと問われ、彼は「まだまだ頂上が見えるということは全くないのかなと思う」と答えている。しかし、他の棋士には見えない世界が、既に彼には見えているのであろう。藤井八冠は、すべての棋士の目標となった。かつて、大山名人、中原名人、羽生名人らの大棋士がいた将棋界の頂に彼がいる。
藤井聡太はAIが解析できないような独創的な妙手を次々と打ち出し、相手を圧倒する。人間の棋力とAIの解析力をハイブリッドした存在が頂点を極めたのである。これからも、彼の棋譜は、AIがディープランニングし、データベース化され、研究されていく。今や彼の敵は人間ではなくAIなのかもしれない。しかし、彼はそれを超えてさらなる高みを目指していくだろう。
将棋界のユニコーン
抜群の棋力を持ち平常心を保つ事が出来る藤井聡太は、「将棋界のユニコーン」と考えてもいいだろう。素晴らしいユニコーンが我々の心に勇気と感動を与えてくれる。彼は今まさに将棋の歴史を作っている。その瞬間を目撃できる我々は幸せである。
藤井聡太は、戦国大名では織田信長に例えられる。棋士の真価は逆境でこそ示されるという。信長が今川義元を破った桶狭間の戦いの如く、AIによる評価値99対1(勝利確率1%)の剣が峰で彼が繰り出す起死回生の一手。それは野球で9回裏ツーアウト・逆転サヨナラ満塁ホームランに相当するドラマチックなものである。将棋界の頂点に立った今、“八大タイトル防衛”という前人未踏の戦いに挑む若き棋士の未来をこれからも応援していきたい。藤井聡太による「盤上の物語」は第二章を迎えたばかりである。
Genius is a little boy chasing a butterfly up a mountain. John Steinbeck
(天才とは、山の頂上まで蝶を追う幼い少年である)
(長野医報:2024年3月号)